『日本の難点』第二章

“本気で聞くことができなくなったのは、本気で聞いてくれる人がいなくなったから(←要約)”

これはその前の段落の“悪いことをした子どもの言い分に耳を貸すなんてバカげている(ダメなものはダメでいいだろ)”ってことと矛盾はしないか。確かに子どもの言い分を聞いても、あまりに一般論な、経験に基づかない、正論らしきもので「〜だからダメ」と言っても意味はないだろう。本気(=実感)がない。でも“本気で聞く”ことが出来る人が、言い分を本気できくことをしなければ、“本気で言う”こともなくなってしまうことになる。“本気で聞かない”ことをきっかけに“本気で言わない”が始まってしまう。
子どもの言い分が屁理屈でも、そこに幾分かの“本気”があるなら、本気で聞く姿勢は必要ではないか?言い分の中身、ではなく、言うという行動への本気度、も込みで。言い分を聞いた上で「んなこたぁダメだ!ダメなもんはダメだ!」と言ったっていいじゃないか。もちろん、その“ダメ”に実感、本気がなければどうしようもないが。

それとも私の出発点がおかしいのか?“聞く”から始まるのではなく“話す”から始まるのか?しかし、人間の発達の過程から考えれば“聞く”経験を通して“話す”ことを覚えるのだから、やはり“本気で聞いてもらう”経験を通して“本気で言う”ことができるようになる気がする。*1


*1:追記・・・発達過程で言葉を聞いて、それを模倣することで話すことができるわけだが、自由に話せるようになった状態ではそれはないな