ぼくらの時代2

  • 深夜の救助

ボートが私たちを迎えに来たのは日付も変わった午前2時過ぎ。すでに身体は冷え切って、足先の感覚はほとんどない。もしかしたら凍傷になるかもしれないとさえ思った。歩道橋の下をゴム長を履いた男性が何人か通り過ぎた。家族の安否が不明なため陸前高砂から歩いてきた、など、みな家族を捜して腰よりも深い水を漕いで歩いてきていた。

一緒に避難していた真下の住人は精神疾患を抱えていたようで、キャパシティを超えたストレスにより体調を崩しかけていた。そのため早めに救助してもらおうと列の前のほうへ移動した。しかしボートの定員は限られているため、なかなか順番は回ってこない。そうこうしているうちに真下の住人はうずくまって動かなくなってしまった。近くにいた人から話を聞くと

「なんか眠剤飲んだって言ってましたよ。」

・・・。

お前さ、いくら周りに人がいっぱいいて助けてくれるからってそれはねーだろうよ。

いや、確かに自分も過去の経験からキャパシティ超えると眠くなるのは分かっているけど、進んで眠剤飲むか?

だいぶ呆れながらなんとかボートに乗せ、自分の順番を待つ。そう時間もかからずボートに乗り込むことができた。橋の袂には一次救護所のようなテントが設けてあり、救助された人はそこで毛布に包まりトリアージタッグをつけられた。いつまで経っても身体は温まらなかったが、救助された人が次々とテントにやってくるので避難所へ向かった。

歩道橋の上で話した人たちと市役所で落ち合う約束をしたので、私は市役所へ向かった。テント内にいた救助者の中で市役所に向かうのは私一人だったため消防車で送ってもらった。市役所は人であふれていた。毛布も寝場所も足りておらず、1階のホールではたくさんの人がテレビを囲んで食い入るようにニュースを見つめていた。気仙沼で火災が発生していること、荒浜地区で200〜300の遺体が発見されたこと、少しずつ地震津波の被害状況が見えてきた。ニュースの最中、何度も緊急地震速報が鳴り、時には2ヶ所同時に速報が発表されていた。しかし、歩道橋にいたときにも何度も何度も何度も大きな揺れを感じていたためかそんなに慌てることもない震度にさえ感じた。

誰かが使い終わった毛布を見つけた私は2階に上がり、ひとつだけ空いている椅子に座り、持っていた非常食用のリッツを1袋空け3分の1だけ食べて眠った。


  • 父と再会

日が昇ってから市役所から文化センターへ移動した。アパートで父と別れる前に文化センターへ行くことを伝えていたからである。文化センターではなんだかよく分からない行列がながーーーーく続いていた。朝食の配給だったのだが、パンは足りていないため子供優先ということだった。私は非常食を持っていたので牛乳を1杯だけもらった。

大ホールの前には既にたくさんの人がいたため、私はそこからさらに奥にある狭い通路に場所を見つけ腰を下ろした。寝床を作っていると隣に1人、その隣にもまた1人、私と同じように単身で避難してきた青年が腰を下ろした。青年の一人は職業訓練所で一晩過ごして自力で文化センターまで避難してきたと言う。

「昼の食事の目処が立っていないので並ばないでください」

という放送が聞こえたため、昼食のために並ぶ必要がなくなった。救出後、どのくらい水が引いたのかを確かめるため文化センターからCOOPへ続く坂道を下っていくと、父が坂を上ってきたのが見えた。父もまた、先の青年と同じように腰まで浸かるほどの水を漕いで自力で避難してきたということだった。アパートの周辺もまだ水は引いていなかったが膝下くらいにまでは引いていたようで、避難のために濡れた服を着替えてきたそうだ。

  • そして極寒

文化センターに避難できたのはよかったが、とった場所が悪かったようで非常に寒い夜を過ごすことになってしまった。ニット帽にダウンコート、靴下は2枚重ねて履き、マフラーも巻いていたが、寒くて寒くてロクに眠れなかった。