生の礼賛

『相棒』を観た後、『ギネ』に移動。問題提起モノの触れ込みだったのでどんなもんなのかと。正直、どこで切り上げて風呂に入ろうか悩んだ(笑)
『ギネ』を観ていて非常にもやもやしたのは、主人公(藤原紀香)の異常なまでの生命への執着。今後ドラマの展開にも関係してくること必至なのではあるが、盲目的礼賛とも見える生命への執着に対する答えがどのように提起されるのかというのは見たいようで見たくない。もしも「生命への考え方は多種多様である。」ということを認識しながらも生命の盲目的礼賛を劇中の登場人物及び視聴者にゴリ押ししてくるようならば私は非常に気分を害することが容易に想像できるからである。
今回、主人公と生命が関わるエピソードは大きく分けて3つあったのでそれにそって少し書いてみる。


「避妊失敗しちゃったんでぇーモーニングなんとかってやつ?欲しいんですけどぉ。コイツに今、妊娠されっと困るんスよぉ」とやってきた明らかにチャラいカップルに対して「避妊もできないような人にセックスをする資格なし」と言い、ピルの処方をしない。いいんですけど。ナマでやってピルもらいに来るやつには説教してもいいよ。だけど、仮にこのカップルが現状では子供を産み育てられないと考えてしっかり避妊していたとしたら?コンドームが運悪く破けてしまった、それでもやっぱり否定するかねぇ?結婚するまでに行うセックスを否定するってことだよね。はっきり言って。私はセックスを子供を作るためだけのものとは考えていないためモーニングアフターピル容認派。
子供ができたらできたでなんとか育てられるでしょ、とかいう考えは甘いように思う。たとえば学生、たとえばフリーター、たとえば無職、たとえば病気。いろんな状況が考えられるけれど、産まない決断をするくらいだから生まれてくる子供だって幸せに育てられるかと言ったら疑問が残る。環境として幸せに育てられる可能性が低ければ、おそらく私はピルを飲む。それは自分のためであると同時に子供のためにでもある。「そのほとんどが自分のためでしょーが!!」とか突っ込まないでね。自分が幸せじゃないのに、なんで子供を幸せにできるよ?

  • 高確率で障害が予測される胎児

胎児が非常に危険な状態で、すぐにでも帝王切開しなければ胎児を死産することになるが、産んでも90%の確率で疾患や障害を抱えることになる夫婦に「なんで堕ろすの?同じ命じゃない!!」と詰め寄る主人公。一番吐き気がした。産むこと、避妊すること、堕胎すること、すべて子供への愛情の形が違うだけなのに。そしてそれはどれを選んだとしてもエゴでしかないのに。子供のことを思って産まないことだけ悪なのか。産まない=殺す、だから、自分の手を汚したくないから生むのか。自己弁護のために産むならそれだって悪だろう。産むことばかりを良しとして、その考えを押し付ける医師もエゴイスティックと言わざるを得ない。そして、じゃあなんでインフォームドコンセント(最近は違う言葉だったかな?)なんてあるんだよ。
でもね、そう考えるのは仕方ないっていうのもわかる。そりゃあ命を救うために医師やってんだから。肉体的にキツい職業なのに精神的にもキツいとかね・・・。高給取りって言われるけど、もらって然りだよ、ほんとに!!自分には絶対できない。

  • 延命治療を希望しないがん患者

子宮がん末期患者の最期を偶然みかけて他の医師から「延命治療は希望されていないんだよ」と聞かされた主人公は複雑な表情で見送る。まぁね、わかるっちゃわかる。私の勤務先でも看取り介護をやっていくようだから、今後死生観が定まらなくて苦悩する介護士が続出する気がする。だけど、はっきり言って死が善いものになるのも悪いものになるのも、送り出す側の気持ちひとつなんだと。これは病死だけでなく自殺でも同じだと思う。ここ最近、身近な人が亡くなっていないので、最近大切な方を亡くした人は気分を害されるかもしれない。そのような人はここから先を読まないように!!
私にとって死は決して悪いものではない。若くして病気で亡くなったらそれはもちろん「もっといろんなことできたはずなのに・・・」って思うけど、同時に「よくがんばったね。でももう楽だから。お疲れ様。」とも思う。もちろん高齢になれば「よくがんばったね〜・・・」の比率が高くなる。実際、利用者さんが亡くなって顔を見に行ったときにそう思った。「がんばりましたね。話はできなくなるけど、痛みもなくなるから好きなだけ絵を描けますよ。」って。悲しいのは“会えなくなる寂しさ”という完全にこちらの都合なのだと思っている。
自殺はどうか?自殺も正直、あまり変わらない。「そんなに辛かったのか。でもこれでもう苦しまなくていいんだね。」と。もちろん、近しい人ほど「力になれなかった。」「死なずに済んだかもしれないのに。」と思うだろう。だけどそれはあくまでこちら側の妄想でしかない可能性も非常に高いのだ。ただ自殺に関しては、現在いろいろなNPOが予防活動を展開しているが、金銭的なことを解決することで死ななくてもよくなるケースも非常に多いのだという。また、男性の場合はうつ病の自覚がないことも多く、通院することで楽になることもある。このようなことから私は自殺予防活動は非常に重要であるし、効果があるものだと認識している。延命治療の話にも通じるが、やはり「やることはやった!」という“見殺しにしたわけではない確たる証拠”というものが残されるものには必要なのだろう。ただ延命治療に関して言えば「自分の最期くらい自分で決めさせようよ」「自分でそう決めたんだからいいじゃないか」という思いもある。


長々と書いてきたが、やはり私には「死=悪なのは許せない!」という思いがどうも強いようで・・・。たぶん自分の死生学の出発点が自殺願望(自殺を肯定してほしい、つーか自殺してなにが悪い!!)にあるからなんだろうなぁと思う。自殺願望から出発している割に自殺予防がライフワークだと思っているんだけど、おそらくその時“死にたい気持ち”と同じくらいの“生きたい気持ち”があったせいなんだろうと分析している。「病気さえなければ私はもっと生きたい!!」って思っていたからなぁ。それと大学1年のときに死生学をやったのも今の考えに大きく影響している。「“死にがい”は“生きがい!!”(納得のいく終わりを迎えるにはいい人生だったと思えることが大事)」なんてモロだし。デーケン先生、何言ってるかよくわかんないから寝ちゃってたけどありがとうございました!!