青色の軌跡

十数年ぶりに石田彰のラジオを聴いた。一部分だけど。動画投稿サイトっていうのはホントに便利だね。今までだったら見れなかったもの、聴けなかったもの、見よう・聴こうとしたらものすごい労力がかかっていたものが今はネットで簡単にそれが手に入る。昔は今みたいにレンタルビデオ屋なんて充実していなかったから、見たいアニメがあっても見れなかったし、ラジオだって雑音だらけのAMで聴けるか聴けないかの瀬戸際で聴いていたのに。

中学・高校の頃の私は、今でいうアニオタだったのだ。そして声優オタ。声優に至っては『ボイスアニメージュ』は毎号欠かさず買って、『声優グランプリ』は毎号立ち読みしていたくらいで、なおかつその中の“出演データ一覧”みたいな欄を熟読していたものだ。ちょうどその頃が第何次だかの声優ブームの始まりだったのもあって、AMラジオでも声優ラジオが数多く存在していた。もちろん私はそれを聴いていたのだが、私の地元は山々に囲まれているために非常に、非常に、ひっじょぅぅぅぅうに電波状況が悪かった。たぶん今も悪い。が、そんな中を部屋の中で一番電波を拾う場所を探しまわり、時にはお兄様の部屋に侵入してまで聴いていたのだ。電気を落とした暗い部屋の中でヘッドフォンを耳に当て、彼らのトークやらラジオドラマを夢中になって聴いていた。
そんなことを思い出した。思い出したのは石田彰のラジオだったから、だけではない。思い出したのは、あのころ聴いていた『クリームソーダギムレット』という番組だったからなのだ。

そんなこと思い出していたら「あー、私にもそんなキラキラした時代があったなぁ。今みたいに普通じゃない生活じゃなくて、周囲とほとんど変わらない普通の生活。あったんだなぁ・・・」と若干感傷に浸ってしまった。あの頃は自分がうつ病になってまともに働けなくなるなんて想像もできんかった。普通に大学に行って、普通に看護師やって、可能ならば専門看護師になろうとまで思っていたのに。いや、今でも専門看護師は完全にあきらめきれてはいないけど。
過去のキラキラした思い出は、青春時代だったからキラキラして見えるのだと言い聞かせておこう。きっとそのほうが幸せだ。

枯れた花の美しさ

桜は散るからあんなにも人はこぞって花見をする。花火はあっという間に終わってしまうから人は余韻に浸る。それと同じように、人は年を取っていくから若さをうらやむ。だけど、枯葉が舞い散るのを美しいと、雪が積もっては溶けていくさまを美しいと思うように、年を取ったからこその美しさだってあると思う。ピンと張り詰めた肌も、皺くちゃの手も、同じくらい美しいのだ。


数年前、森山直太朗の『生きてることが辛いなら』をバックにおばあちゃんが赤ちゃんを抱っこしているCMがあったのを覚えているだろうか。確かメディカルなんちゃらのCMだったと思うが。あのおばあちゃんは衝撃的だった。皺だらけのヌードがこんなにも美しいものかと。若者のヌードには出せない美が間違いなくそこにはあった。おそらくそれはkyuiくんの言う「先鋭化された肉体や欲求」そのものなのだろう。余分な欲求をそぎ落として現れた肉体。
施設のおばあちゃん達は私や職員の手を見ては「きれいな手だねぇ。私なんかホラ」と言って自分の手を見せるけど、私はその手が醜いとは思わなかった。年を取ったら年を取ったなりの美しさが間違いなくある。彼女達の手を今の私は手に入れることはできない。だからそんなに私たちの手を、若さをうらやむ必要なんてないと、本気で思っている。

まぁ、そんなわけで、私、今の職場を退職いたしました。
理由は言わずもがなー。3月アタマから続く体調不良が一向に回復せず、薬もなんか去年出たばっかの強烈な抗うつ剤を処方されて起きれなくなったりしてね。なのでしばらく実家に帰って療養して、帰ってきたら夜勤専従か午後からのお仕事をしようかと思っているよ。

右向け左!逆も然り

建国記念の日建国記念日って何が違うんだろう・・・。


こんな日なので右翼思想とか左翼思想とか話をしてみる。はっきり言って政治思想については非常に不勉強なので「いやいやいや・・・(苦笑)」というところも多かろうが、目をつぶって欲しい。ここで「よくわからないから・・・」と口をつぐんでしまえば、口をつぐんでしまうから政治離れしてしまうのだと思っているからあまりに稚拙で浅薄なことでも書いておこうと思う。

自分は長いこと右寄りでありだと思ってきたが、近年どうもそうではないような気がしてきた。その原因が『愛国心』という言葉。自分にとっての愛国心愛郷心の延長線上にあるものだ。家族やなじみのある人や土地、つまりホームを愛している。正直、同じ日本でもよく知らない多くの人や土地に関しては何処吹く風だ。しかし、ホームを守るためには国が必要だ。だから国も守りたい。愛国心、というのは右翼が多用し、左翼の嫌う言葉だと理解している。

国単位で政治を考えたときに私が重視するのは医療福祉関連の充実、労働者の権利の保護。それはいわゆる左の思想だ。つまり、私は愛国心を持ちながら左翼的思想を持っている。この場合、私は右と左のどちらに入るべきなのか。そもそも、左の人たちは国がよくなっていくことを望んではいないのか?と非常に疑問に思う。国を愛し、憂いた結果が左翼思想なのではないのか?左翼と愛国は相容れないものなのか?もしも実は相容れるものなのだとすれば、私は迷うことなく左寄りの人間になるのだ。

こういうことを考えると疑問ばかりが浮かんでくる。愛国心愛郷心は同一視していいものなのか、どう取り扱うべきものなのか。右と保守、左と革新は必ずセットでなければならないのか。政治思想においては分けるべきものがかなり多いのではないだろうか。そもそも2種類に分類できるほど簡単な話じゃないだろうと思う。

なんか右とか左とか考えてると頭がこんがらがってきて疲れる・・・。

君に歌う

職場の「V6しかCD買わないんです」という女の子に薦める曲。なんかスネオヘアーとか名前は知ってるっぽいからメジャーではない人でもいいのかなぁと。以下。

知っていそうな人たちはあんまりイメージじゃない曲を、知らなさそうな人たちは聴いて欲しいかつできるだけポップなものを、という選曲。果たして彼女はロキノンにはまるでしょうか?

うちのばあちゃん

27日の葬儀は化粧が剥げ落ちるくらい泣いておりました。んで、忌明けに幸楼でご飯を食べたらウンコが腹に溜まりすぎてて口からオーバーフロー。なかなかの踏んだり蹴ったり。

亡くなったばあちゃんは実家から車で5分もかからないくらい近所に住んでいた。私が小学生のときは学校帰りに友達と一緒にばあちゃんちに寄ってお菓子をもらったりしたもんだった。中学生のときにじいちゃんが死んでからは、足の悪いばあちゃんのために母が料理を作ってよく持っていっていた。私もそんなに忙しい生活をしているわけでもなかったので、ちょくちょくばあちゃんの家に遊びに行っては話し相手をしていたりした。私が家を離れてからも盆正月は必ずお土産を持って顔を出した。「もう働いてるからいらないよ」と言っても行く度にばあちゃんは小遣いをくれた。
私だけでなく兄も弟もばあちゃんとはそういう関係を持っていたので、母曰く「うちの子供たちが孫の中で一番泣いてた」らしい。確かに兄も顔を見なくてもわかるくらい泣いていた。

ばあちゃんは今年の9月に自宅で倒れているところをヘルパーさんに発見されて救急搬送された。検査してみたら肝臓ガンの末期だった。ずっと病んでいた胃がガンになってそこから転移したらしい。
10月に私が休職して実家に戻った時にはふっくらしていたほっぺたも身体も肉が落ちて一目で「痩せたな」とわかるくらいだった。それでもちょこちょこご飯は食べれていたんだが、11月中ごろからご飯も喉を通らなくなってしまった。それでも意識はしっかりしていて鎮痛剤で朦朧としながらも、見舞いに行けば話をした。12月中旬、私は復職のために多賀城へもどる前の日、見舞いに行った。私が行く前に母が見舞っていたのでしゃべりつかれたのか「しゃべれない」とばあちゃんがジェスチャーするので、そのまましばらくベッドサイドに座っていた。すると布団をはいで腰を指差すので病衣の紐を結び直して欲しいのかと思って手をやると、ばあちゃんは私の手をつかんだ。いままでそんなことをされたことがなかったので少し驚いた。それと同時に「これでもうお別れなのかな」とも思った。
23日、母から「面会謝絶室に移動したよ。いよいよです。」というメールがきて、翌24日の昼に「ばあちゃん亡くなったよ。」とメールがあった。わかっていたことではあったが寂しかった。悲しいというより寂しい。もうあの家に行ってもコタツには誰も座ってなくて、誰も私を迎えてはくれないのかと思うと寂しくて仕方がなかった。今でもそれは寂しくて涙が出る。

ばあちゃんが亡くなった後に母から「ばあちゃんね、いっつも“ラブギは?”って訊いてね、すごい気にかけていたよ。」と聞かされた。最後まで自分のことより他人を気遣ってたばあちゃん。せめて向こうでは気楽に気ままに過ごしてくれたらと思う。
来年から盆と正月は寂しくなります。

さよならの季節

扉を隔てた向こうに祖母が眠っている。祖母にはもう朝も夜もやってこない。畳の臭いのする祖母の家には誰も居ないし、病院に行っても祖母は居ない。2ヶ月後には米寿のお祝いが控えていた。
目を閉じた祖母は3週間前に会った時よりもさらに痩せ細り、以前の面影を残してはいない。それ故、祖母が死んだことを祖母と対面しても実感できなかった。何度顔を見ても涙は出なかった。末期の水をとると、柔らかい筈の唇が蝋のように硬くなっているのがわかった。

弟は祖母の眠る部屋に行くことを嫌がった。泣けてくるのがわかっているから、だそうだ。だけど初七日までは人目を憚らず泣いてもいいだろう。別れは今しかできない。別れから逃げれば後悔をするかもしれない。かつての私のように。

私が多賀城に戻る前の日に見舞った時、ふいに手を握られたことを思い出して私は泣いている。病名や病状をしらなくても祖母はこれが最期かもしれないとわかっていたのかもしれない。私が大きくなってから最初で最期の握手だった。

全力で別れを告げようと思う。それが私の感謝の示し方だと信じている。